□ 小論 SHORT ARTICLE


入れ墨、フェティシスム、男性同性愛

藤田博史
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現実の否認 déni de la réalité

 裸の哺乳類。剝いた茹で玉子のようにツルリとした肌、頭と腋下と生殖器に残存して密生する体毛。不完全な胎児の皮膚のまま誕生してしまった突然変異体としてのヒト。進化の系統樹の頂点にではなく、側枝として誕生した未熟な一哺乳動物は、しかしながら自らの弱点を逆手にとって言葉と道具を発明し、結果的にこの美しい星に君臨するまでに到った。にも拘わらず、依然としてヒトは、未熟なままこの世に生まれ、成熟することなくあの世へと去ってゆく異質なネオテニー的哺乳動物であることに変わりはない。
 「母なしでは生き延びてゆけない」という絶対的無力を抱えたヒトの子は、結局死ぬまで「(母に)愛されたい」という願望を抱き続ける不思議な動物だ。発達のごく初期(生後六〜十八ヵ月)に、つまり言葉の世界に巻き込まれる以前に母と二人だけで過ごした蜜月の期間は、ヒトという哺乳類に或る特殊な情念の世界を賦与する。精神分析において「想像界」と呼ばれるこの言葉以前の世界では、唯一であろうとする自我にとって「母=自我の鏡像」は愛の対象であると同時に憎しみの対象でもある。これは母の殺害がそのままそれが自分の死を意味するような矛盾に満ちた関係である。
 母にしてみれば、子は自らの身体像に欠けている「あるもの」を補ってくれる対象なのであり、だからこそ母は子をあたかも自らの身体の一部であるかのように愛して止まない。想像界のなかで母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている。つまり子の欲望は母の欲望を求める欲望として相乗されている。しかし母の場所には決定的に「あるもの」が欠けており、これに対し、子はこの欠如の場所から母の欲望が生じていることを受け入れることができず、幻想のなかで、母の場所における欠如を補填せざるを得なくなる。つまり子は自らの幻想のなかで母にペニスを賦与する。しかしこのような幻想はまもなく挫折することになる。なぜなら子は早晩母の股間にペニスがないことを目撃してしまうからである。この「母にペニスがない」という現実を受け入れることは失望と痛みをともなうが、通常、子はこの堪え難き現実を認め、ペニスの有無に基づく基本的な判断基準を心的な構造のなかに導入する。つまりここで「去勢コンプレックス」が導入される。
 以上のような一般的な経過に反し、この現実を「否認」する子が表われる。このような子は、母におけるペニスの欠如を最終的に認めることができない。このような子は自らの幻想のなかで母のペニスの欠如している場所に「それに代わるもの」を設置して「母にペニスがない」という堪えがたき現実を否認し続けている。このとき、そこに設置された対象が「ペニスの代理人」としての「自己の鏡像」であるならば、子は母が自分を愛したように自分の愛の対象を選択して男性同性愛者となる。また、設置された対象が「ペニスの代理物」としての「モノ(=フェティッシュ)」であるならば、その子はフェティシストの道を歩むことになるだろう。
 「なにかが足らない」という視覚的現実に対して、この現実を「認めない」という心的機制が働き、不足しているものの代わりに同性の人物や代理のモノを愛の対象として選択してしまうこと、これが男性同性愛やフェティシスムという倒錯を生み出している基本的なメカニズムである

入れ墨とフェティシスム

 身体に消しがたい痕跡を刻み込むこと。ヒトに見られるこの固有に風習は「文身(ぶんしん)」と呼ばれ、文身には入れ墨のような「刺痕文身」と、切り傷や焼き傷を入れて文様を描く「瘢痕文身」とがある。いずれにせよ、この「痛み」をともなう行為は「身体に消しがたいイマージュ image indélébiles を描き込む」という記憶の基本メカニズムそのものを表現している。またそれと同時に「文身」は親密な母子関係を断ち切る「去勢」の象徴表現でもある。自らの身体に「足らないもの」の印を刻み込んで、母とは異なる「欠如なき身体」を完成させ、それによって母と訣別すること。いうまでもなく、少年が成人になるための儀式として「入れ墨」を行う民族や種族が世界中に存在する。
 逆に男は、女からみれば「なにかが過剰」な生き物であり、男の入れ墨はその「過剰」の象徴である。一方、女の入れ墨はその欠如の補填である。つまり前者は「男のフェティシスム」、後者は「女の去勢」の視覚的な表現である。たとえば南太平洋の母系社会に見られる成人女子の入れ墨は「ペニスを持った母」の視覚的な象徴表現になっており、さらにそのような母系社会の成人男子の間で行われる入れ墨は、自らが男性同性愛者にならないための知恵としての防衛的なフェティシスムとして機能している。つまりフェティシスムと男性同性愛は互いに排除し合う二つの倒錯の形であり、入れ墨は男性同性愛の顕在化を防ぐ働きをもっているのである。

むすびーフェティシストと二つの同性愛者


 過剰と欠如。入れ墨をした男と素肌の女の絡む姿はこの二極の懸隔をことさら強調する。ここには「男は男らしく」「女は女らしく」という言葉のもつ意味がまさに「イマージュ」として視覚化されている。ところでもしここで、逆に、女の肌に入れ墨が彫られ、男の方が素肌であったらどうだろう。この組み合わせは「ペニスをもった母と息子のいる風景」であり、あの言葉を覚える以前の親密な母子関係、つまり母と息子の近親相姦の現場写真となるだろう。おそらく倒錯的男性同性愛者(いわゆる「おかま」)はこちらの写真の方を好むであろうし、フェティシストや強迫神経症的同性愛者(いわゆる「ホモ」)は、男の入れ墨の方を好むであろう。さて、あなたの場合はどうだろうか。





『プリンツ21ー化粧する人』1995年春号、68-70頁、株式会社プリンツ21



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