□ 書評 BOOK REVIEW


川上未映子『乳と卵』文芸春秋 サイズ:46判 144頁 1,200円

隠蔽記憶としての小説
依然として燻り続けている去勢要求

藤田博史
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 『乳と卵』を評するにあたって、昨年八月に「言語、そして母と子」という川上氏が提案したテーマを巡って私自身が彼女と長時間の対談を行なっているという経緯もあり、ここでは本人の実際の語り口を知った上でのテクスト分析ということになる。紙数が限られているので詳述は別の機会に譲り、本稿では最も重要なことだけを指摘しておきたい。
 まず最初の要点は、一般的な評価とは裏腹に、実はテクストそのものはこれが饒舌であろうが簡潔であろうがそこに本質的な違いはない、ということである。重要なのは「テクストは何かを隠蔽している」或いは「言葉は嘘をつくためにある」という精神分析的な視点である。この意味で作家は「隠し名人」であり「嘘つき名人」である。テクストにおいて何かを隠蔽するために最も効果的な手法は、ひたすら言葉そのものに読者の注意を惹き付けることであるが、作家は饒舌体という舞台装置の上で、「女性性」を巡る内的な問いを「豊胸手術と初潮」あるいは「母と娘」という一般的な対概念に分解して悲喜劇化し、そこへ知的なトリビアと樋口一葉へのオマージュを流し込んで重層構造に仕立て上げた。これは読者とりわけ男性のフェティシストに対して仕掛けられた巧妙な罠である。
 技巧をいくつか列挙してみよう。埴谷雄高の評論集のような並立的表題『乳と卵』は「父、採らん」つまり「父(芥川)が(彼女を)採択する」(!)であり「父と居らん」(父の不在)でもある。樋口一葉的と自任する文体。緑子は「たけくらべ」の美登利さらに嬰児。緑子の「厭を練習、厭。厭」「大人になるのは厭なこと」といういい回しは、美登利の「ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事」からの借用。五千円札で一葉を暗示。「わたし」の「うちは上野で乗り換えて二駅」「駅からまっすぐ小学校を越え大きな信号を二つ越えて、十分ほど歩く距離」すなわち一葉記念館の場所そのもの、といった具合である。
 今挙げたことのすべては擬装である。見逃してならないのは、そこに殆ど書かれないままになっていることの方である。フロイトは幼児期の鮮明ではあるが無意味な記憶が、抑圧された性的体験や幻想を覆い隠している場合、これらを隠蔽記憶と呼んだ。隠蔽記憶の特徴は、細部まではっきりと語れる鮮明さをもっている一方でそれ自体には積極的な意味がない、という点にある。『乳と卵』の情景描写はまさにこの隠蔽記憶と同じ構造をもっている。内言を外言として写し取ってゆく換喩的手法によって、仮想現実としての物語が、まるで目の前で起こっているかのように描写されているが、そこに現実のような奥行きや厚みは感じられない。テーマのように擬装された豊胸手術や初潮も、結局のところスクリーンの表面を滑って仮想現実構築のためのパーツとして隠蔽に一役買っているに過ぎない。
 ではこの小説はいったい何を隠そうとしているのだろうか。フロイトのいう「抑圧された性的体験や幻想」に相当するものとは何だろうか。象徴的な水準の話をすれば、女性にとっての最初の性的体験とは、母ー娘という二項関係のなかへ父(男性)が介入してくることである。この介入の仕方によってその後の女性としての同一化の運命が定まってくる。このような父の機能の介入のことを精神分析では象徴的去勢と呼んでいる。鏡のなかに映し出された女性の体には、去勢されるべきものが予め失われており、それ故にある種抑制の効かないもどかしさとでもいうべき衝動が、未消化のまま体のなかに燻っている。父の機能の介入はまさにこのような行き場のない衝動を断ち切る役割を担っている。フランスの女性思想家でデリダの親友でもあるエレーヌ・シクスーは、女性にとっての去勢とは断頭つまり「お喋りする頭を切断すること」であると述べている。彼女は「性器か頭か」と題された論文のなかで、この事態を「断頭コンプレックスを通して女性は象徴の世界へ参入する」と表現した。『乳と卵』の中盤、銭湯の場面での「普段ならかなりの割り合いで識別の重みをもつ顔、という部位がとんとうすれ、ここでは体自体が歩き、体自体が喋り、体自体が意思を持ち、ひとつひとつの動作の中央には体しかないように見えてくるのやった」という表現、あるいは最終場面で「わたしは背筋を伸ばして、顎を引いて、まっすぐに立ち、少し動いて顔以外の全部を鏡に映してみた」といった描写に遭遇するが、ここで図らずも表現されているのは「断頭」の光景に他ならない。ちなみに単行本併録の「あなたたちの恋愛は瀕死」では更に明確に断頭のテーマが反復されている。
 石原慎太郎氏は選評のなかで「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」と述べ、選考委員のなかでは唯一人、彼女の文章の未去勢的本質を見抜いている。つまり極言すれば「女のお喋りには去勢が必要」という訳である。なるほどこの小説は全体として「だれか早くわたしを黙らせて!」という逆説的な無意識のメッセージのようにも聞こえてくる。分析の経験は、このような去勢要求が、しばしば成熟拒否(母親拒否)を伴って、拒食、過食、リストカットといった行為化の形で実行されることを知っている。実は、豊胸手術はまさにその去勢要求の呪縛から主体が離脱するために有効な手段の一つなのであるが、このことは意外と知られていない。実際、美容外科の現場では去勢要求に囚われた女性が自ら望んで豊胸手術を受けた後に心的症状が劇的に改善する例に屡々遭遇する。然るに巻子は豊胸手術を受けることもなく「わたし」の胸も小さいままで幕切れを迎えてしまう。このことはつまり作家は自分のなかで去勢要求が依然として燻り続けていることを図らずも表現してしまっていることになる。
 象徴の世界に女性としてうまく参入できない主体の苦悩は自ずと多弁によって補填されるしかない。途切れない文章、豊胸手術、初潮の遅延、成熟拒否、筆談、男根精神、化粧、ロボコン、父の不在、ダニ殺虫剤、ドレッシングの中身、玉子をぶつける頭、玉子まみれの顔、使われなかった花火等々、作家の提出したテーマの殆どすべては断頭(去勢)コンプレックスの換喩表現になっている。これとは逆に、高度な隠喩表現を要求される俳句などはおそらく作家の苦手な分野になるのであろう。
 とまれ、このまだ若い作家にとっての真の試練は、決して多弁を発展させてゆくことではなく、むしろ多弁自身がどのような形で自らに終止符を打つことができるか、というアポリアのなかにこそあるといえるだろう。今後の作品が注目される所以である。

・週刊読書人(株式会社 読書人)2008年3月28日号(第2731号)第5面に掲載


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