□ 書評 BOOK REVIEW


赤間啓之『ユートピアのラカン』青土社 四六判364頁 2800円

ラカンと共同体をめぐる哲学的SF小説
ラカン的ユートピアを横断してSFの言説を実践する試み

藤田博史
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 本書は前作『ラカンもしくは小説の視線』 (1988年)に続く「ラカン・シリーズ」の第二作である。前作は極めてユニークな小説生成装置論であったにもかかわらず、その語り口の難解さも手伝ってか結果として広く理解されるまでには至らなかった。この前作の「あとがき」のなかで赤間氏は<「科学」と「小説」の「間」の距離無化による「科学小説」の生産>の可能性を示唆していたのであったが、本書の登場によってこの可能性に一つの実践的な回答が与えられたことになる。赤間氏の著作を敬愛する読者ならば、六年前に仄めかされた着想が本書のなかで確かな形で開花しているのを発見しておもわず微笑んでしまうにちがいない。とはいえ、氏の個性的な語り口は独自の難解さを伴っているから、論の展開に追随してゆくには常に一定の思考努力が要求されることを覚悟しておかなければならない。

 <本書は「固有名と共同体」をテーマとする哲学的SFである>という明快な書き出しではじまるこの「SF」は、この試みじたいがすでに自己言及のパラドックスの領域から立ち上がっていることをまず読者に警告する。本書はラカンの著作や講義録を「科学」としてではなく「SF」として読むことを提唱する「SF小説」であり、「SF(について)のSF」という巧妙な装置でもある。これは前作で論じられた「眼の自己愛」装置による小説作法の実践ともいえる。さらにいうなら本書は「精神分析=サイエンス」と「小説=フィクション」の相互における「境界侵犯」の実践であり、二つの領域はそこであたかもクラインの壺のなかを通過してゆく液体のごとく、あるいは組み換えを起こす遺伝子のように相互の捩れを引き受けて交叉を形成し、「精神分析=小説」「サイエンス・フィクション」という新たな世界を生み出している。

 境界侵犯の実践の第一、それは「ラカン(理論そのもの)によるラカン(派という精神分析の共同体)批判」の実践である。批判の論理そのものの確からしさとは別の次元で、「有名人」ラカンと「無名人」ピションという二人の登場人物を召喚して展開される「排除 forclusion」という用語の起源の「排除」をめぐる物語は独自の説得力をもっている。実践の第二はヒステリーの言説の象徴としての「パスカルの三角形」をテーマとする症状連鎖の物語を描き出すことである。とくにここで展開される日本語の「は」と「が」の差異をめぐる考察は注目に値する。これら二つのシニフィアンは揺れ動く主辞-述辞のシーソーの残像を支持する梃子であり、異なる可能世界(ポシブルワールド)を連結する特殊な言語装置にほかならない。さらに実践の第三では、パース-ラカンの「日時計(カドラン)」と呼ばれる四分割円を議論の中心に据え、ピションの二つの否定辞とクリプキの固有名論を祖述しながらこの「日時計」に非在と不整の二つのモードがあることを指摘し、さらにその二重否定の区画のなかに可能世界ならぬ「平行宇宙(パラレルワールド)」への入り口が見いだされ得る、という大胆な試みが展開される。「日時計の裏側に平行宇宙の入り口が・・・」と題されたこの第III章こそ、境界侵犯の実践として書き綴られてきた「哲学的SF小説」のクライマックスにほかならない。ここには明らかにラカンを積極的に誤読することの悦びがある。しかもこの誤読は、既成の世界の「踏み外し faux-pas」としての「読み外し fausse-lecture」としてSFにおいては積極的に評価されるべきものであろう。SFによってSFそのものにそなわる力を肯定し、その悦びも含めて実践すること。「フィクションのもつ還元しきれぬ力を積極的に肯定していこうではないか」と気持ちよく語る作者の清々しさを評者は積極的に肯定したい。軽快なフットワークで世界を踏み外し続けること。このような姿勢こそ、閉じられた虚構の虚構性を暴く「SF作家」の独創性と特異性の証にほかならないのだから。(精神科医)

・図書新聞2244号(1995年4月29日)に掲載


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