□ エッセイ ESSAY


フランス語と私

33年前の想い出
藤田博史
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 日本万国博博覧会いわゆる大阪万博が開催された1970年、わたしは北九州市に住む中学2年生だった。三波春夫の万博音頭や岡本太郎の太陽の塔が話題になり「人類の進歩と調和」というテーマが大々的に宣伝され、日本中は万博ムード一色になっていた。中学校の修学旅行先にも当然のように万博会場が組み込まれた。様々な意匠を凝らされた世界各国のパビリオン(展示館)のなかで、お目当てのフランス館は白くて丸いドーム状の比較的地味な建物であった。薄暗い館内では香水やワインなどが展示され、等身大の人型の白いパネルがポツポツと立っているだけの抽象的な内装であった。しかしながらこの館内の風景はそれ以降わたしの心の中に残り続け、どういうわけか当時のNHKフランス語講座の不思議なテーマ音楽と重ね合わされて今でもある種の郷愁の感覚を伴って甦ってくる。
 当時の北九州の公立中学校にはフランス語の授業はなく、学びたくても教えてくれる人がいなかった。そのような環境にあって書店で見つけた一冊の参考書が小林正著『テーブル式フランス語便覧』であった。この本はタイトル通り要点がテーブル式にまとめられており、簡潔にして明解で、どういうわけか通常赤字で強調されるべき箇所が淡いブルーで印刷されていた。わたしはこの色がいたく気に入ったのだった。それから33年、少年の頃に自分が手に取った本が今もなお書店の棚に並んでいるのを見出すたびにタイムスリップ的な不思議な感覚が湧いてくる。
 また当時、自意識が肥大してくる年齢に差しかかっていたわたしは、解るはずもないサルトルの『存在と無』やフロイトの『精神分析入門』を読破することに心を砕いていた。わたしはこれらの書物の中に宇宙や人間存在についての謎の「答え」が書かれていると信じ、これらを理解できれば少しでも宇宙の真実に近づくことができるのだと思い込んでいた。そして無謀にも『存在と無』の原書を買い込み、お気に入りの白水社の『仏和中辞典』を頼りに必死に格闘した。結果は明らかだった。いくら努力してもフランス語の意味もそこに書かれている内容もさっぱりわからなかった。それから10年、フランスに留学し哲学の授業で教授が「わたしはサルトルが『存在と無』で何を書いているのかさっぱりわからんよ」と言った時、思わず一人で微笑んでしまったのを思い出す。
 一方、ポピュラーソングの世界ではダニエル・ビダルというフランス人形のような可愛らしい歌手が登場し「天使のいたずら」「カトリーヌ」「小さな鳩」などの曲を次々とヒットさせた。わたしのお気に入りは「カトリーヌ」で、ドーナツ板のレコードを安物の卓上プレーヤーですり切れるまで繰り返し、フランス語の歌詞をそれらしくマネして歌ったりしていた。今思い返してみるとこれが赤面もので、中学生のわたしの耳にはそんな風に聞こえていたんだなあと今となっては苦笑するばかりである。
 このようにしてわたしのフランス語独学の歴史が始まったのだが、その後も遅々として進まず、そのうちに5歳年上の従姉妹がパリ国立音楽院に留学してしまった。それからというもの時折フランスから送られてくる絵ハガキを眺めては出来るだけ早い段階で自分もフランスに留学するんだと心に決めていた。高校を卒業し大学受験に失敗した年、上智大学の出口のところで業者が配っていた「フランス・ソルボンヌ大学文明講座留学案内」のパンフレットを手にして「これだ!」と思った。受験浪人する代わりにパリに留学したいと父に打ち明けたら「志が中途半端である」と静かに諭された。仕方なく一年の浪人生活を経て信州大学に進んでからもフランス留学の機会を窺いながら土木工事や家庭教師のアルバイトで資金を貯めた。入学して4年の歳月が流れ、ついに長年の夢を実行に移す時がやってきた。将来精神科医になるためにフランス留学が必要であると詭弁を弄し、担任教授と学部長を説得して休学の許可をもらった。留学先はニース大学文学部。今になって考えてみると実は教授も学部長もわたしのお粗末な詭弁などは百も承知で、ただわたしの一生懸命な様子を見かねて寛大な心で休学を許可してくれたのだった。しかし現実は厳しい。留学して数ヶ月で資金はなくなり、その後は観光ガイドや通訳をしながら辛うじて生き延びた。フランスに渡って2年が経過した時、芸術こそが人間の至高の当為であると思うようになっており、もう日本には帰らないでこのまま芸術家としてフランスで生きてゆこうと考えていた。再び父に相談した。父はこの時も静かにわたしの判断が軽率であることを諭してくれた。わたしは帰国し医学の勉強を再開して医師になった。しかし皮肉なことに医師になってまもなく母がガンで亡くなり、その七年後に父も母の後を追うようにこの世を去ってしまった。
 それから13年。再びフランスに留学し、わたしがこうしてフランス語に助けられながら精神分析医として生き甲斐のある仕事に打ち込んでゆけるのも、あの時の父の優しくて厳しい静かな言葉があったからなのだと、今さらのようにしみじみと思い返されるのである。



白水社『ふらんす』2003年7月号(第78巻第7号)所収(一部加筆)



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